自己主張と共感力は反比例?

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選挙演説が繰り返されるこの時期、いつも思うことがあります。

なんのために演説しているのかということ。

演説の目的は当然のことながら「当選すること」であり、自身の票を獲得するために自分の考えや取り組みを披露するという自己主張を行い、また差別化を図るという目的で他の政党との違いについて話をするということは全うなことだと思います。

しかし問題なのは、聞き手にとっての視点が著しく欠如していること。

聞き手がどう思うかなどという発想が全くないのかと思わざるを得ない場面に幾度となく遭遇します。

代表例を挙げると、「他党を具体的に批判する」反面、「自身のこれまでの反省」は全くない。加えて「自身は考え方だけ披露」にとどまり具体性に欠ける。

これでは主張を受け入れる以前に、「信憑性」がないためつまり信用できない。具体的でもないため、政権運営を任せられるイメージすらつかない。
よってなんかしゃべっているなとしか思えないのが実情だろうと思います。

つまり自身では自身の考え方や差別化含めて訴求できているものの、じつは単なる自己満足でしかなく、逆に価値を下げているのではないでしょうか。

昔なら大きなことを言う、或いは勢いがあるというイメージを訴求することの効果はあっただろうと推測します。しかし現在では「信用が出来るか否か」「誠実さ」の方が必要要素ではないでしょうか。

つまり敵対する党であっても評価するところは評価し、その上で課題と解決策を具体的に提案する。自身についても良いことばかりではなく反省も加え、至らなかった点は素直に認める。

当然のことながら「今こそ暴走を止める」などという発言に比べインパクトは薄れますが、聞く耳をもとうと思う、任せてみようと思う、つまりは共感を得られやすいのではないでしょうか。

自身の主張をすることが目的ではなく、有権者に共感を得ていただき投票所に足を向かせる、自身への投票を促すのが目的の筈。大義がないだの、自身も日ごろから口にしていなかったであろう定数削減を急に言い出してみたりなどせず、選挙を行うことが決まったのであれば前向きに考えた方が得策なのではないでしょうか?

批判合戦なら選挙費用を無駄にしているのは野党だろうと思ってしまう今日この頃。本来の目的に立ち戻ってみては如何でしょうか?

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